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不殺

「IS」「緋弾のアリア」とMFのラノベ原作のアニメを続けて観ました。両作に共通しているのは「いかに人死にを出さずに盛り上げるか」に徹していることです。

「IS」はメカアクションを、「アリア」はハリウッド的アクションを丁寧に演出することでそれを成立させていました。「んなバカな」とツッコミつつも最後まで観させる魅力が両作にはありました。

数年前、ある漫画誌の編集部が「男子中学生」に限定した大掛かりな意識調査をしたことがあり、その結果を見せてもらったことがあったのですが、「人が死ぬ描写、取り返しのつかないような怪我(四肢欠損など)の描写」を極度に嫌うという結果がありました。

私は「若いうちほど過激な描写を好む(なぜなら自分がそうだったから)」という先入観があったので、この結果は少なからずショックでした。

確かに、週刊少年ジャンプの主人公は、剣心のあたりを境に人を殺さなくなりました。「北斗の拳」や「ブラックエンジェルズ」など昔のジャンプ主人公はバンバン人を殺していたものです。現在の「H×H」や「デスノ」は異例と言えます。「シャーマンキング」は「殺しても生き返る」という設定を作ってしまい戦闘の緊張を殺いでしまいました。それゆえに「ハオを倒す(殺す)」ことに意味がなくなり「ハオを救う」話にシフトしたのだと思います。

脚本家の橋田壽賀子氏は「渡る世間は鬼ばかり」で不倫と殺人を禁じ手としたそうです。どちらも「ホームドラマ」の土台を揺るがすものだから。「キャラを殺して感動や衝撃を与えるのは、安易で二流の表現」という主張をする人がいます。一方「死の描写にこそ真実がある」と言う人もいます。どちらが正しいという話ではない。殺すにしろ殺さないにしろ、その選んだ表現にどれだけの覚悟を持っているかが大事なのだと思います。

「まど☆マギ」の3話でマミさんが死ぬことを、視聴者の誰も望まなかったと思います。ともするとその描写一つで視聴者は作品から離れたかもしれません。しかし、離れるどころか大半の人が「離れられなくなった」これは綿密な計算と覚悟が脚本に込められていたからです。

私は「HappyWorld!」の連載開始時に「人の死の描写」を禁じ手としましたが、結果としてその禁を自分で破りました。9.11テロで意識の変化があったのもありますが、覚悟が足りなかった。これが私の書き手としての性であり、限界なのかもしれません。

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コメント

「人が死ぬ描写」は、扱い方によって「良い」「悪い」が決まるもので、その扱いさえ間違えなければ問題無いと思います。
分かりやすく言えば、読者がその死の場面に納得するかどうかが重要だと思います。

「北斗の拳」は、かなり人が死にますが、基本的にザコキャラはあっさりな感じで死に、主要キャラはドラマチックな展開で死ぬ事が多いです。
単に人を殺すのではなく、どのように読者に死ぬ場面を「魅せるのか」が重要であり、読者を裏切らない死の場面なら、例え残酷な表現でも「良し」となる場合があります。

逆に読者が納得できない場面は、読者の落胆が大きく、読むのを止めてしまう事もあります。
これも「魅せ方」の問題であり、例えば交通事故で両足を失った主人公の漫画だったとした場合、最初の1話目では両足があり、3話目に急に交通事故で両足を失うと、読者がショックを受ける可能性がありますが、1話目から両足が無く、読者が「なんで足が無いの?」と疑問に思っている所で、3話目の交通事故の場面が出ると、読者はショックを受けるどころか「ああ、なるほど」と納得感が得られて、両足を失う場面のショックを和らげる事ができる可能性があります。

人の死や体の欠損などは、ハイリスク、ハイリターンな感じがあり、安易に扱うとその後の展開が良くても、読者は「ガッカリ感」を引きずりながら読み続ける事になります。
そんなハイリスク、ハイリターンな手法を避けて描いているのが現代の漫画なのかもしれません。

まあ近年人の死の描写などが減ったのは、それだけ「魅せる死の描写」が描ける漫画家が居なくなったと言った可能性もありそう。

投稿: Raika | 2011年7月 7日 (木) 02:17

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